主祭神 たかおかみのかみ
例祭日 8月1日・2日
鎮座地 西本町6丁目246(TEL 06-6411-0170)
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≪お社の説明・御由緒≫
貴布禰神社は全国に約460社(その内、福岡140社、大分94社)あり、総本宮は京都・鞍馬の貴船神社。伝承によると「神武天皇の皇母・玉依姫命は雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて、黄船に乗り、瀬戸内から尼崎、淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出ずる、霊境吹井を認めて、水神を奉斎す」とある。この尼崎とは旧社地(長洲)と推察される。
京都の貴船神社は表記が違うが、これは明治4年に太政官達を以て変更されたもので、それまでは気生嶺・気生根・木生嶺・木生根・黄船・貴布禰・木船と諸書に見られる。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができない。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神様である。
長洲貴布禰神社によれば、平安京遷都の折、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が任務の成就を己が護神に祈願したところ、予定通りに事が運び、報謝のために吉備真備(きびのまきび)に謀りこの地を定めて社を奉建したと伝えられる。長洲貴布禰神社は京都鴨社の社領である長洲御厨に位置し、長洲の集落の微高地に建てられている。
大覚寺との関係が多大で、加茂の御厨の雑掌として鎌倉末期に尼崎・長洲の地に来た大覚寺が、賀茂御厨の守護神として賀茂別雷大神と賀茂御祖大神を奉斎していた。その後、貴布禰社を京都より勧請して自寺の境内社とし、賀茂社を吸収したものと考えられる。この三神は鴨川水系の同系神と見られ合祀されたようである。その後、同寺の南進に伴い当社も転々とした。
1500年代の尼崎築城とともに城内三の丸(旧尼崎市役所付近)に鎮座し、元和年間(1615~20年)の尼崎城主・戸田氏鉄によって行われた改築城の際、役人町の末(現在の西桜木町、寺町西端の南接地)へ、その後、火災や洪水などに見舞われ、正徳五年(1715年)に現在地に遷座した。江戸時代には尼崎藩のご祈願所となり、公式祈願祭をそれまでの大覚寺に変わって斎行した。また城主の崇敬はすこぶる篤く、初代戸田家から始まり、次代青山家からは家紋をいただき、三代櫻井松平家とは最近に至るまで重厚な崇敬を受けている。
旧社格は明治6年(1873年)に郷社に、大正9年(1920年)に縣社に昇格している。現在の尼崎市内66社の神社では唯一の社格である。
また、昭和20年戦災に遭い文政8年竣工の社殿を焼失したが、昭和25年に阪神間の被災神社に先駆けて復興された。また平成7年の阪神淡路大震災でも大鳥居の倒壊、南門の半壊など被災したが、氏子また会社工場の協力により翌年までには全て復興がなされた。
《社殿・境内の特徴》 昭和25年に復興された本殿は、台湾檜が使用された一間社流造。その本殿と幣殿・拝殿・すき塀からなる社殿は、平成14年に大改修工事が行われ、銅屋根の葺き替え、幣殿の拡張、神饌所の新設、土間のタイル貼りがなされた。 境内の入り口には尼崎市内の神社では珍しく表門を構える。こちらも創建年は明確ではないが、約300年前に建立されたとされる。戦災を免れ、阪神淡路大震災では半壊したものの、根元を米檜で継ぎ足すなどして修復し、屋根瓦も葺き替えられて元の姿を取り戻した。現在も毎朝開門され、毎夕閉門される現役の門である。 また境内社が7社ある。本殿より右奥にあるのが白波稲荷神社。元は尼崎城内牡丹畑に御鎮座になり、城主が常に城内並びに城下の安泰を御祈願になっておられた。明治初年の廃藩の際、松平遠江守忠興公より建物一切の御寄進を受け当社に遷座した。昭和初年、現在の御社殿を造営し、戦災にも被害が無く、一時期、貴布禰神社仮殿として使用された。 また愛敬三社(あいけいさんしゃ)は、尼崎の旧藩主・桜井家に非常にご縁の深いお社で、宝暦4年(1754)に松平忠名公の命により御造営され、宝暦8年(1758)に京都・白川殿において御神号が授与された。祭神の御本名は不明で、それだけ深い御事情の御正体と推察される。 そして古い歴史を持つ門前町であることを示す「市庭町」(現在の東本町3丁目・4丁目一帯の旧称)の産土神である市庭戎神社は大正4年より当社境内社として鎮座している。他にも相殿社・榎社・白龍社が鎮座している。
宮司さんのおはなし
当社は現在地に鎮座以来、本来の宗教機能である止雨・祈雨の祈願とは無関係に、土着の庶民から篤く信仰され、祭礼における出し物など、元禄頃より盛んになり、尼崎一の盛況を見るに至りました。庶民階級との接点が多かったため、明治維新以降も民衆の神社としてその規模を保つことが出来たと思われます。
貴布禰神社 だんじり祭(大祭:8月2日午後3時より 宵宮:8月1日)
1日は午前10時ころより、各町の太鼓・地車が神職のお祓いを受けた後、町内を中心に運行する。午後5時半より太鼓を先頭に地車8台が阪神尼崎駅南側を出発し、商店街や氏子地域を「パレード」する。午後7時半頃から「宮入」。特に先頭の辰巳太鼓の暴れ方に特徴があり、右へ左へ90度以上倒され、横倒しされる様は、参拝者から自然と拍手がおこるなど感動を与える。全ての宮入が終わると、太鼓・地車9台が境内で一夜を過ごし御神威を受ける。
2日は午前10時頃より、地車が神社を出発し、町内を中心に運行する。午後5時半頃に神社西側道路に集まり「山合わせ」が行われる。これは尼崎独特のもので、2台の地車が向かい合い、前の部分を上げながらぶつかるもの。そして上手く肩背棒といわれる棒を先方の地車にのせることができれば勝負ありという演技だ。日本全国の地車ファンから問い合わせがあるほどで、約3時間にわたって熱戦が繰り広げられる。2日間を通して、境内及び隣接する公園などに約150軒の露店が並び、また近隣の商店街などでも夜店が出され、町全体が祭りムードに包まれる。また、大祭の斎行日が8月1日、2日と決められているため、特に尼崎南部地域ではよく知られており、最近では全国の地車ファンも集うなど2日間で約10万人の参拝者で賑わう。
きふね寄席
昭和63年5月より「でやしき寄席特別例会」として、平成4年10月からは「きふね寄席」として、年に2回、社務所を小屋として落語会が行われてきた。この寄席は神社主体ではなく、世話人さんが主体となって開催されており、平成21年からは年3回(3月・5月・10月)に行われている。かつては桂文紅師匠が、そして師匠没後は笑福亭三喬さんが落語家の手配を行い、毎回5名の落語家が約2時間半熱演する。回を重ねる毎に来場者も増え、最近では常時160名ほどのお客さんの笑い声が境内に響き渡る。約20年間の地道な活動が、今や神社の名物の一つとなった。
五色百人一首尼崎地区大会
尼崎市内の小学校の先生有志を中心に平成15年から毎年正月前後に「五色百人一首尼崎地区大会」が行われている。五色百人一首とは、百首を二十首ずつ五色(青・桃・黄・緑・橙)に色分けし、その色ごとに一対一で対戦するという、小学生にも分かり易く工夫された百人一首のこと。尼崎市内全域、及び近隣より多くの小学生が集まり、熱戦が繰り広げられる。年々参加者が増加しており、神社の社務所で百人一首を通して日本語に親しむ小学生の姿はなかなかのもの。
宮司さんのおはなし
往時は中在家町からだけで9基のだんじりが出され、漁師町であった中在家町の勢いを広く知らしめていました。また古文書の中には、神社の護持運営を危惧した氏子から社頭収入の安定を進言する内容の手紙が残されています。
神社にとって転換期となったのが、南部地域への会社工場の進出と、国道43号線の開通です。会社工場の安全に対する真剣な思いは、敷地内での稲荷社鎮座をはじめ、月次祭や初午祭、また安全祈願祭、そして設備投資における起工式や清祓式などの神事が節目節目に行われていることからも分かります。また氏子地の大半を要して開通した国道43号線ですが、車社会の到来とともに、自動車で参拝できる神社としても多くの参拝客に喜ばれ、現在ではほとんどが自動車によるお参りとなっています。
「きふねさん」へどうぞお参り下さい。お待ちしております。