水堂 須佐男神社 (みずどう すさのおじんじゃ)

水堂須佐男神社

主祭神 須佐男命(すさのおのみこと)

例祭日 10月第3日曜日

鎮座地 水堂町1丁目25-7(TEL 06-6438-3078)

>>> 水堂須佐男神社ホームページ(外部リンク)

≪お社の説明・御由緒≫

 JR立花駅下車、線路の北側にそって西へ徒歩で8分ほどのところ。阪急武庫之荘駅からまっすぐ南へ下っても行ける。

道路から一段高く築かれた境内は、全体が五世紀ごろの築造になる前方後円墳(水堂古墳)である。往古、海中の小さな島ででもあったのか。そこに墳墓が築かれ、お宮が祀られ、当地の住民の氏神として守られてきたものであろう。創祀は天正3年(16世紀)という。当社も尼崎に数多い「スサノオ社」のひとつ。末社に、天武天皇社、天満宮がある。御社殿としては、流麗な流れ造りの本殿・拝殿、および総檜造りの手水舎があります。これらの社殿は、平成七年の阪神大震災によって旧拝殿(本殿・拝殿は大正六年造営)が倒壊したため、平成十年に復興再建されたものです。拝殿正面の社名額は、深山龍洞筆(大正6年)。本殿裏手には、古墳保存館もあります。

 古い年代の石造物としては、元禄六年(1693)の銘記がある手水鉢、「元禄十二夘之歳夘月十六日摂州河辺郡 橘 御園荘 水堂村」という刻文が今も鮮やかに読める旧鳥居支柱、室町時代(十五、六世紀)の制作と思われる純朴な風姿の狛犬、享和二年(1802)および文化五年(1808)の銘を刻む境内階段石、そして元禄から天保にいたる二百年間に奉献された江戸時代の燈籠九基などがあります。
 近年の石造物では、境内石垣(大正四年)、社名石碑(昭和十九年)、三竿句碑(昭和六十二年)先代宮司 上村 秀男作 「ほととぎす 雨夜となり て人恋し」など。

 水堂古墳の被葬者と、阪神大震災の犠牲者の霊に捧げる意を込めて、滋賀大津在住の日本画家 鈴木靖将が描いた当社拝殿の天井画「万葉の花」(平成十年作)は、東西8m 南北4mの格天井の杉板全面に165枚。銅鏡・刀剣など古墳副葬品をイメージした大作を中心に配し、その周囲に四季にわけて『万葉集』の歌に詠まれた野の草花、つばき・かきつばた・ききょう・おみなえし等々をデザイン化して描き、他に類を見ない意匠と色彩の傑作です。当社震災復興の美しくも貴重なシンボルでもあります。

水堂古墳

水堂古墳

 当社の境内地(約1300平方メートル・約四百余坪)のほぼ全体が、間口50メートル、奥行き60メートルの前方後円墳で、水堂古墳と呼ばれ、尼崎市指定文化財になっています。

「水堂」というのは地名ですが、往古、このあたりは海辺に近く葦原の生い茂る湿地でありました。「みずどう」は、もと「みずど」もしくは「みど」(水処)だったのかもしれません。そして弥生後期(二、三世紀ごろ)からこの地に人々が集落を営んでいたことが分かっています。古墳は昭和三十七年(1962)に発掘調査が行われ、粘土槨におおわれた朱塗りの木棺が納められていた古墳中心部は、今も保存されています。発掘当時、粉状になった人骨をはじめ、副葬品として鉄槍、鉄斧、直刀、短剣、竹製の櫛、胡籙(矢筒)、そして珍しい銘文を刻んだ青銅の鏡(三角縁神獣鏡)、弥生式の甕や土器などが発見されました。おそらく当地域の海洋と陸地を領有した豪族の墓であったろうと思われます。

水堂 須佐男神社 おまつり

夏祭(7月第4土曜日) 夕刻より境内で、茅の輪神事が行われ、氏子青年会による夜店がある。その後、茅の輪は立花商店街の子ども祭の際、商店街に設置される。

水堂須佐男神社 例祭(秋祭) (10月第3日曜日) 午後2時より祭典、子供みこし巡行 6町会の各みこしが子供たちにより、氏子地域を練り歩きます。

夏祭橘商店街 茅の輪くぐり秋祭

交通案内

水堂須佐男神社 交通案内

鎮座地:水堂町1丁目25-7(TEL 06-6438-3078)

JR立花駅から西へ徒歩10分ほど

阪急武庫之荘駅から南へ徒歩15分ほど
駐車場:境内に駐車可能(但し例祭時は駐車不可能)

※神社前の道路は東からの一方通行となっておりますのでご注意ください。境内入口は南東側スロープよりお入りください。(道幅が狭いのでご注意ください)


>>> 水堂須佐男神社ホームページ(外部リンク)

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