例祭日 7月21日
鎮座地 大物町2丁目7-6(TEL 06-6401-6069)
≪お社の説明・御由緒≫
尼崎の語源は「海が幸」といわれます。海の恵み豊かで、風光明媚な場所だったそうです。陸上海上とも、都への交通の玄関口だった尼崎ですが、海岸線は時代とともに南下しています。社殿によれば、海に至る河口に三角州が点在し、その州のひとつに大物主命の社が祭りの場として建てられたのが起源とされますが、年代は不詳です。現在境内地は神崎川-武庫川間で最も海抜が高いそうですが、そのような場所を選んで鎮座地としたのでしょう。神社の特徴として、少し高いところは勿論、「聖地」と見なされるような場所に創建されることが多かったそうです。祖から子孫へ受け継がれる「かみまつり」を大切にするための方法でもあったのではないでしょうか。 時代は下り平安時代後期、尼崎の海は、当時大物浦と呼ばれ風光明媚な場所でしたが、海上交通では要所であり難所でもありました。それで、安芸の国守であった平清盛が、このお社に厳島神社の神様を勧請(神様の御分霊をいただいてお移し)合祀して行き来の安全を祈念した、という伝承があります。またもう少し後、源義経が兄頼朝から追討されたとき、逃亡の船出をしたのが当社目前であった大物浦であり、当社近くの七軒長屋に逗留したと言われます。謡曲や講談の『舟弁慶』が有名です。 京都への玄関口として尼崎は荘園ともなり、戦地ともなり、また商いも盛んに行われてきましたが、工業の発達した現代においても、往古と変わらずかみまつりは続いています。
『大物主(おおものぬし)大神』さまの御事
のちの習合思想でインド由来の大黒天と同神とされていく大国主(おおくにぬし)神さまの「奇霊(くしみたま)」「幸霊(さきみたま)」とおおせになられて登場します。難解な神話ですが、神のちからの大きさと多面性を表現するとも解釈されています。国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神様とされています。
たくさんの兄神さまのあった神さまで、須佐男(すさのお・素盞嗚)神さまの子、あるいは末とされます。『因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)』から、この大神さまの物語ははじまります。なんども兄神さまたちから迫害を受け、青木繁画伯のモチーフにもなっているように死と再生を繰り返す大神さまの成長譚は、古代社会のイニシエーション(通過儀礼=共同体の成員、おとな、と認められるための試練)の反映ではないかと言われています。須佐男命のもとで、その娘と婚姻し、さらに試練に耐え抜き、ついに須佐男命から王となるべく予祝される姿は、古代の共同体の支配権の委譲を示すものかもしれません。
成長し、すでに大きなちからを得ている大神さまですが、「国つくり」にあたっては知恵そのもののような少彦名(すくなひこな)神さまとともにその事業を展開します。このような物語の中で大神さまは、多くの違った御神名で呼ばれます。「大己貴・大穴牟遲(おおなむち)神」「葦原色許男・葦原醜男(あしはらのしこお)神」「八千矛(やちほこ)神」「顕国魂・宇都志国玉(うつしくにたま)神」などなど。 そうして修りあげられた国は、天照大神の末、皇祖がたに譲られていきます。えべっさんは大人気の福の神ですが、その御名を一名には事代主(ことしろぬし)神さまと申し上げ、こちらもまた有名な諏訪大社の御祭神 建御名方(たけみなかた)神さまとともに、大神様の御子神さまです。
さて、時代は降って第10代崇神(すじん)天皇の御代、奈良県の大神神社が勅により大田田根子(おおたたねこ)という、大神さまの子孫によってお祭りし始められるのですが、この子孫に鴨部祝(かもべのはふり)という人、あるいは氏族の一人がこの尼崎の海辺の大きな三角州に大神さまをまつったのだという口伝がありました。
『宗像三柱(むなかたみはしら)神』さまの御事
交通の守り神として有名な神さまです。市杵島姫(いちきしまひめ)命、田心姫(たごりひめ)命、湍津姫(たぎつひめ)命三柱(神さまの助数詞は柱)の女神さまは、天照大神と須佐男命の「うけひ」のとき成りました神さまです。日本書紀に「道の中に降りいまして、天孫を助けまつり、天孫のために所祭(いつかれ)よ」「名を道主貴(みちぬしむち)ともうす」とあります。
当社は江戸時代までは「大物社」「大物若宮」「若宮社」「若宮弁財天」などと図絵などに見受けられます(神社が「神社」と呼称されるようになったのは多くは明治以降)。 若宮というと、親神にたいして子神、子の応神(おうじん)天皇(八幡大神)と母の神功(じんぐう)皇后のようにいいます。祖神・大物主大神、子孫・大田田根子、その子孫・鴨部祝、と理解すべきなのかとも思いますが、はっきりしません。明治になって神社制度が確立されるまで、村の氏神さま、鎮守さまということで、御祭神のお名前に大きな注意がはらわれなかったともいわれます。今の「大物主神社」は、明治初年の神仏判然令以降、神社明細取調もなされ、明治7年、主祭神を大物主大神と制度上確定したとき決定した呼称です。
ところで実は口伝があります。この女神さまが、女性ですので年齢を重ねて容色が衰えるのを嫌って「いつまでも若く」とおおせになったから、というのです。『天人五衰』ではありませんが、神仏習合の故の言い伝えでしょうか。しかし、伊勢の神宮の、20年に一度の式年遷宮を始め、何年かに一度御造営をなさる伝統はいくつかの神社にあるようで、『常若(とこわか)』というのは、ひとつの価値意識を示すものなのかもしれません。
宮司さんのおはなし
御祭神、大物主命は記紀にも登場する神様で、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神様とされています。一般に七福神の大黒さまと言われています。御神徳の紹介として「なんの神様」というような言い方をするのは本当に畏れ多いことですが、神話を物語った古代の人々が世界をどのように理解し、神々を敬っていたのか理解するひとつのツールとされています。
義経 弁慶 隠れ家跡
社殿左手に建つ碑は、頼朝から追討される主従が西国へ船出(1185)するために当社東側にあった七軒(間とも)長屋に逗留したという言い伝えを守るため、有志の希望により建てられました。もともとは、昭和3年、昭和天皇即位を記念して、尼崎市青年団、尼崎市在郷軍人聯合分会、尼崎市婦人会、尼崎市教育会の四団体の連合事業として行われた建碑事業の一環で、現在神社東側の道路上に建てられていたのですが、絨毯爆撃により消失していました。この即位記念建碑事業の碑は、大物交番脇の「大物くつれ(1531)戦跡」の碑が現存しています。地域史、言い伝えを残していく上で、何か形を作っておくのは大切なことであろうと思います。義経の逃避行についても、静御前とはここではなく吉野で別れたとか、大物でも追っ手と一戦交えたのではないかとか、そもそも義経は大物に来ていないのではないかとか、様々なことをおっしゃる方があります。ただ、何者が来た歴史、言い伝えがあろうと、重要なのは神と神まつりです。境内では行儀良くしてください。
汁醤油発祥地の碑
「尼の生醤油」というのをご存じでしょうか。「尼の生揚醤油保存会」で造っておられます。
大物で醤油が生まれたのは平安時代の末期とされているそうですが、阪神大震災までは醤油蔵だったという建物が神社の近所に残っていました。諸事情により戦後その醸造の伝統が途絶えていたものを、40数年のブランクを経て復活されました。その成功を祈念して神前に額ずき、記念して碑をお建てになりました。戦前は大塚、長尾、寺岡、藤井、小坂、井沢、庄司などのような醸造元があったそうです。
宮司さんのおはなし
なかでも大塚の娘がキッコーマンに嫁して製法を伝えたとかなんとか・・・・。ことの真偽はわかりませんが、参拝の方から聞かれたことがあります。「大物主さんはお酒を造りはった神さんやけど、醤油も造りはったん?」いやいや・・・・・。
酒、醤油、味噌などは醸造されるわけですが、醸造といえば、発酵を意図的に起こしてモノづくりをすることです。
現代では発酵ということが科学的にわかっていますが、古代においては、その人間に益する素晴らしい作用は、神様のちからのあらわれと信じられました。
大物主神社 例祭(7月21日)
社殿の祭典は予定された方々のみご参加いただいていますが、21日の後の土曜日日曜日、子供太鼓の曳行や、夜店が出たりもします。夜神楽はお申し込みいただければ受けていただけますのでお問い合わせ下さい。(お車ではおいでいただけません。)
11月6日は殿内で祭儀を斎行しています。一般の方は御参列いただいておりません。
四時祭(しいじのみまつり):
歳旦歳 元始祭 節分(一般参加可能) 紀元祭 祈年祭
上巳祭 春分 昭和祭 端午 夏越大祓(一般参加可能)
平和祈念祭 秋分 神嘗祭当日祭 新嘗祭 天長節 大晦大祓(一般参加可能)ほか
毎月15日朝9時月次祭はどなたでも御参列いただけます。
宮司さんのおはなし
殿内祈祷の申し込みはお電話でお問い合わせ下さい。会社の安全祈願 商売繁盛など、また各家庭では初宮参りを始め人生儀礼 諸祈願、お申し込み下さい。
出張祭典申し込みも
お電話でお問い合わせ下さい。
地鎮祭 家祓 諸安全祈願 井戸祓い 商店開き 神葬祭 など