初島稲荷神社 出世稲荷宮 (はつしまいなりじんじゃ)

主祭神 倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)

例祭日 10月23日

鎮座地 北初島町2(TEL06-6401-3668)

≪お社の説明・御由緒≫

享保元年(1716)、泉屋利兵衛、小山屋半六による新田開発に伴って、伏見稲荷より勧請、創祠されたと伝えられています。
往古、堺から神戸までの海辺は風光明媚な土地柄で、それは謡曲『雲林院』や『舟弁慶』などにも表現されたりしていますが、当地はそれとともに水害の多い地域でもございました。社殿も幾度となくその被害に遭いましたが、明治43年には立派に再建されたものが大正、昭和には戦災を受けるも、平成まで護持されていたのですが、阪神大震災により倒壊いたしました。現在の社殿は平成10年4月に復興されました。
地域の口伝では、水害に対しては村人たちもただ手をこまねいたわけではなく、俵に土を詰めて、決壊しそうな堤防に積み上げて自衛しようとしたそうです。ある水害の時、その土俵をいったん神社境内に積み上げて、最も危険そうな所から積み上げることにしたそうです。重労働のことですから小休止しながら、どこが一番危険か、などということを話し合い、では、どこそこに積み上げましょうと動き出すと、境内に土俵がありません。不思議なことに、一番危険であろうと考えられた場所に、堅牢に積み上げられていたそうです。人々は神様のご加護に違いないとたいへん感謝したそうです。このような言い伝えが異口同音に様々に伝えられています。

宮司さんのおはなし
現在の初島は工業地帯となっており、地域の口伝は神社あってこそ後世に伝えられていくような面があります。そしてこのようなことは当社に限ったことではないようです。祭祀をきちんと伝えていくことが、地域史を保存していくことにも繋がります。

異称「出世稲荷宮」
『大和物語』などに「蘆刈」という説話があります。当社近辺は往古、芦生い茂る地域でありましたが、 当地を舞台にした物語と言われています。口伝でも、芦を刈って身を立てていた貧しい若夫婦が意を決し、都に奉公に出たところ、様々な機縁に恵まれ立身した、といいます。また、近辺で事業を興し、神社に加護を祈った人々が好く成功を収められたことから、誰知らずこのように呼ぶようになった、と言われています。
石碑「歌枕 浦の初島」
昭和3年、昭和天皇即位を記念して、尼崎では、名勝旧跡、伝説の跡地などに、それを後世に残していこうと石碑が建てられました。境内の石碑「歌枕 浦の初島」もそのひとつです。この建碑は、尼崎市青年団、尼崎市在郷軍人聯合分会、尼崎市婦人会、尼崎市教育会の四団体の連合事業として行われました。 当地を詠った和歌を幾つか紹介します。 おもひやる 浦の初島 同しくは 生きてや見まし 秋の夜の月  (平 清時『続拾遺集』) いかにせん 浦の初島 はるかなる うつつの中は 夢をたに見す  (藤原定家『新拾遺集』) あな恋し 行きてや見まし 津の国の 今もありてふ 浦の初島  (戒仙法師『後撰集』)
眷属さん お不動さん
社殿東側に小さなお社がみっつ並んで建っています。いつのころ建てられたかはわかりませんが、近在の人々から「おきつねさん」「眷属さん」と親しまれている小宮さんです。 この小宮さんと社殿の間に不動明王の像が建てられています。さては神仏混淆の名残かと思われる方も多いのですが違いまして、戦後、当社周辺は阪神間にあって至便ということで、大規模な土地買収の対象となったのです。住まいを売って転居なさる方が、宅地内に祀っていたお不動さんを、なんとかお宮さんで守って欲しいと懇願されました。神仏を敬う心を汲んで、いまも大切にしています。

宮司さんのおはなし
このほかにも境内には碑がふたつあります。   ひとつは「支那事変記念 初島青年団」 軍国主義の名残と批判される方もあろうかと存じますが、当時の人々が愛国心を表現したものとも理解できるでしょう。当社社頭に武運長久を祈って出征していった若者たちもあったそうです。   もうひとつは、なにかおわかりでしょうか。神社にかかわる御物を埋めた場所を表した碑だとも伝えられますが、謎は晴れていません。それもおもしろいかと思っています(笑)。 

謎の石碑1謎の石碑2出世稲荷宮

交通案内

初島稲荷神社交通案内

鎮座地:北初島町2(TEL06-6401-3668)

徒歩:阪神大物駅から南へ、徒歩約15分
市バス:JR尼崎駅・阪神大物駅から路線番号52番 バス停「松島町」下車南へすぐ
駐車場:2~3台


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