尼崎に受け継がれる伝承・文化財

尼崎市内神社所有の指定文化財、史跡、神社や地域に伝わる伝承をご紹介します。先人達の思いや願いを時代を越えて感じることができるかもしれませんね。

天満神社本殿 付棟札一枚(尼崎市指定文化財:建造物)

所在地:尼崎市長洲本通3-5-1 所有者:天満神社 指定年月日:昭和58年3月24日

 棟札により慶長12年(1607年)の建立と判断される。

 一間流れ造り檜皮葺で色付けがなされている。小規模で一部補修が見られるものの軸部・組物などもよく残されている。桃山時代の建築様式をよく伝えており、大きい本殿と遜色がない。尼崎市指定文化財の第1号である。

 平成9年、震災による本殿檜皮の葺替えの際、野地板に古い絵馬の断片が用いられているのが発見された。修復の結果、市内最古 延宝8年(1680年)の絵馬が含まれていることが判明した。外気に触れず色褪せを免れた為、描かれた当時のままの色を留めており、その意味でも貴重とされる。延宝8年から寛保元年(1680~1741年)の27面全部が平成12年3月23日、市の民俗文化財に指定された。

 尼崎の歴史博物館に寄贈後、収蔵、保管されている。

伊佐具神社社号標石(尼崎市指定文化財:歴史資料)

所在地:尼崎市上坂部3-25-18 所有者:伊佐具神社 指定年月日:昭和63年4月1日

伊佐具神社社号標石

 由緒でも申しました「式内社」である伊佐具神社ですが、江戸時代中期に国学者の並河誠所という人が摂津の国の「式内社」の研究をして、後世に伝えるよう、これにあたる各地に標石を建てさせました。
拝殿の右手前の、高さ92センチ、幅24センチの石柱がそれです。「伊佐具社」と刻まれた標石は、昭和63年4月1日、尼崎市指定文化財となりました。
二段の台石(下;43×61 上;24×42)の上段には「菅廣房□」とかすかに見えるのですが、これはこの標石を寄進した山口屋伊兵衛のことです。

おかげ踊り図絵馬(尼崎市指定文化財:有形民俗文化財)

所在地:尼崎市南武庫之荘8丁目15-12 所有者:素盞嗚神社 指定年月日:昭和63年4月1日

おかげ踊り図絵馬

天保2年(1831)9月に、守部村長谷川氏を願主とし、甚蔵他16名の世話人のもとに、絵師桃田江永によって描かれた極彩色のもので、縦83センチ横150センチである。本殿、末社、赤塗りの鳥居、現在の守部観音堂が描かれており、同神社を描写したものであることがわかる。 神社の境内に大幟・高張提灯・大吹流し等を立て、囃し方が太鼓・笛・三味線等を奏で、舞女と踊り組が組ごとにお揃いの衣装で踊っている。おかめ姿の人物が列の先頭をきり、何処かへの繰り込み風景であることがうかがえる。 裏書きの文章には、おかげ踊りの由来、芸態、村民の様子が記されている。

石造 十三重塔(兵庫県指定文化財:建造物)

所在地:尼崎市武庫元町2-9-2 所有者:須佐男神社 指定年月日:昭和43年3月29日

十三重塔

西武庫須佐男神社境内に西面して建つ。鎌倉後期の花崗岩製の層塔である。相輪は後補で、この相輪を除くと410センチである。伊派の名石大工、行恒の作品と推定されていて、阪神地区における十三重塔の代表的な遺品のひとつである。
台石の東面には、
右造立供養之 意趣者為二親
菩薩法界衆生 平等利益也
元応二年八月十九 神主三室藤丸
              敬白
と39字の銘文が印刻され、鎌倉時代に神主三室藤丸を願主として両親の供養の為に建てられたことがわかる。 他の3面にはそれぞれ線刻した蓮華座上に舟形輪郭を彫り込み、南面には阿弥陀、北面には地蔵、西面には釈迦の仏座像を配している。阪神淡路大震災により倒壊、その後塔身が盗難に遭っている。

富松神社本殿(兵庫県指定文化財:建造物)

所在地:尼崎市富松町2-23-1 所有者:富松神社 指定年月日:昭和43年3月29日

富松神社 本殿

当社所蔵の「福松寺記録」には、「牛頭天王棟札」とあり、
新造社 寛永十三丙子林鐘
安永六酉迄百四十四年ニナル
社師  良雄
大工
久左衛門

と写記されていて、寛永13年(1636)に社師良雄が再建したことがわかる。その後承応2年(1686)、寛文11年(1671)、承享3年(1686)等、数回の修理を経て今日に至っている。
昭和41年に造営された覆屋内にある。一間社春日造り、柿葺である。正面の扉や縁まわりに後補の後がみられるが、そのほかはよく保存されている。組物(三ツ斗組)、蟇股などは極彩色で、壁には絵画が施されている。

背面に突き出る頭貫木鼻は象鼻としており珍しい。屋根は箱棟をおくのみで、千木・勝男木は飾らない。全体的にわたり江戸初期の華麗な桃山文化の特徴をよく伝えている。

富松の鬼 茨木童子(いばらぎどうじ)

西富松須佐男神社(鎮座地:武庫之荘東1丁目18-28)/富松神社(鎮座地:富松町2丁目23-1)

茨木童子イラスト

「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。

ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より)

この昔話から茨木童子は親孝行の心優しい鬼と言えます。両親のわが子の異様な姿を恐れ、捨ててしまったことへの後悔や悲しさが伝わってきます。富松の鬼 茨木童子が「親子の絆」の強さ、子・親のありがたさを現代にも伝えてくれています。

船弁慶(ふなべんけい)

大物主神社(鎮座地:大物町2丁目7-6)

 源義経と武蔵坊弁慶らの一行は兄頼朝との不和から都落ちする羽目となり、西国へ下る途中、尼崎大物(だいもつ)の浦に到着します。弁慶は静御前があとを慕って付いてきていることを知り、時節柄、都へ戻してはどうかと進言し、義経の了解を得ます。弁慶の訪問を受けて、このことを告げられた静御前は不審に思い、直接聞いてから返事しようと、義経の宿に向います。そこで、義経から海路の波濤を心配する言葉を聞き、静御前は都へ戻ることを決心します。別れの杯とともに、義経の再起を祈って、中国・越王勾践の故事を詠んだ舞をまい、静御前は涙ながらにたちさります。
 船の準備が出来たという船頭の声を聞いた弁慶は逗留の予定を繰り上げ、ただちに出港しようと急ぎます。船が海に出ると、にわかに武庫山颪(おろし)が吹き荒れ、平家一門の亡霊が沖に浮かびます。なかでも、壇ノ浦で最後まで戦った平知盛の怨霊は、薙刀をふるって、潮を蹴立てて襲いかかります。しかし、義経は騒がず、弁慶の必死の祈祷によって追い払うことが出来たのでした。

名月姫物語

尾浜 八幡神社(鎮座地:尾浜町1丁目4-27)

名月姫遺跡

 神崎に、刑部左衛門国春(きょうぶざえもんくにはる)という人が住んでいた。国春には子どもがいなかったので、名月の夜、月に子宝の授からんことを祈ったところ、女の子が生まれた。そこで名月姫と名付けた。彼女の美しさは成長するにつれて増し、うわさは京の都まで届いたという。ところが能勢(大阪府)に住む武士が名月姫に一目惚れして、彼女を奪い去ってしまった。悲しみにくれた母はやがて亡くなり、父は巡礼の旅に出た。当時は平清盛の時代で、清盛は日宋貿易を進めるために、大輪田泊(神戸の港)の修築にとりかかっていた。しかし、工事は難航し、はかどらなかったので、30人の人柱を立てることにした。関所を設け、人柱にする人々を捕らえた。そのなかに国春がいた。人づてにそのことを聞いた名月姫は、清盛に父の身代わりになることを申し出た。しかし国春も娘の名月姫は助けたいと思い、お互いかばい合っている時に、平清盛の寵童 松王丸が国春親子の恩愛の情に感じ、また多数の人命を犠牲となすを悲しみ請うて自分一人が人柱となって海へ身を投じた。この松王丸の死によって国春と名月姫は助かり、再会することができた。

水堂古墳

水堂須佐男神社(鎮座地:水堂町1丁目25-7)

水堂古墳

 当社の境内地(約1300平方メートル・約四百余坪)のほぼ全体が、間口50メートル、奥行き60メートルの前方後円墳で、水堂古墳と呼ばれ、尼崎市指定文化財になっています。

「水堂」というのは地名ですが、往古、このあたりは海辺に近く葦原の生い茂る湿地でありました。「みずどう」は、もと「みずど」もしくは「みど」(水処)だったのかもしれません。そして弥生後期(二、三世紀ごろ)からこの地に人々が集落を営んでいたことが分かっています。古墳は昭和三十七年(1962)に発掘調査が行われ、粘土槨におおわれた朱塗りの木棺が納められていた古墳中心部は、今も保存されています。発掘当時、粉状になった人骨をはじめ、副葬品として鉄槍、鉄斧、直刀、短剣、竹製の櫛、胡籙(矢筒)、そして珍しい銘文を刻んだ青銅の鏡(三角縁神獣鏡)、弥生式の甕や土器などが発見されました。おそらく当地域の海洋と陸地を領有した豪族の墓であったろうと思われます。

伊居太古墳

伊居太神社(鎮座地:下坂部4丁目13-26)

全長約92m、後円部の直径約53mの前方後円墳で、市内最大規模を誇る。構造は5世紀頃(古墳時代中期)と推定される。近くには若王寺遺跡や下坂部遺跡などがあることから、この地域を支配していた豪族のものであろうと思われる。古墳の原型は伊居太神社の社殿築造のために失われているが、なおその威容をしのぶことができる。古墳の前方部南側には、サムライ塚・白馬塚と呼ばれる陪塚(ばいちょう)という大きな古墳にともなって築かれる小古墳があった。そこからは土師器・須恵器・埴輪片などが出土している。

歯神さま

東園田 白井神社(鎮座地:東園田町4丁目53-1)


昆陽川の魚

塚口神社(鎮座地:塚口本町2丁目11-28)

昆陽川

神社の東を流れる河を「昆陽川」と良い、この河に終戦(昭和20年)前までは、フナによく似た魚で、魚体の両面がコゲ茶のマダラの魚がいました。これを土地の人は行基さんと云って食用にせず、釣上げてもすぐはなしてやりました。これは行基菩薩様が、この地方の一民家に立ち寄られた時、農民がこの魚を焼いて食べようとしていました。行基菩薩様は、その魚を可哀想に思われ、その焼いた魚を農民から買い受け、早々に水に放してやると、不思議やその魚は元のように生き返り、スイスイと泳ぎだしだました。このご高徳を今の世に至っても土地の人は大切にしていましたが、いつのまにか工場の悪水が流れ、今では一匹の魚もいなくなりました。

母の思いがクモの糸に!

塚口神社(鎮座地:塚口本町2丁目11-28)

  参道入口に鳥居があります。その左右に約4メートルはあるでしょうか、立派な献灯台があるのが目につきます献灯台にまつわるお話です。神社の近くに鴻池町(現伊丹)出身の薬問屋を営む武田武兵衛とその母が住んでいました。この年、西郷隆盛ら明治維新政府に対して反乱が勃発、西南戦争が始まりました。武兵衛は官軍として参戦したのです。戦地へ息子を送り出した母親は、毎日毎日心配でなりません。そこで塚口神社で息子の無事を祈ってお百度参りを始めました。その頃、官軍は次第に兵力を増し、勝利目前となりました。ところが武田少尉(武兵衛)は、雨が降る田原坂での白兵戦で、肩と腹に銃弾を受け、谷底へ落ちてしまいました。その時、武兵衛は幼い頃蓬川で魚を捕ったこと、武庫川の桜を母と見に行ったことなど、楽しい思い出が走馬灯のように過ぎ去りました。そして、深い井戸の奥へ渦巻きの風に乗って、心地よく吸い込まれたとき腰のあたりに痛みをおぼえました。見るとクモの糸が巻きついており、さらに上を見ると、母親と白衣の武将が糸をたぐり寄せているではありませんか。武兵衛はここで、「母さんクモの糸を離してください。苦しいですから」と頼みました。ところが「武兵衛、母のお願いだから、糸を切らないで…。離すとお前は死んでしまうのだよ」と一生懸命手を動かしながら、母親は泣いていたそうです。そんな不思議な事があってから、元気になった武兵衛が凱旋しました。ちょうどその日母親がお百度参りした満願の日だったのです。武兵衛と母親は手を取り合って喜び、塚口神社へお礼のお参りをしたと云われております。大きく、立派な献灯台は後に、母親の遺言によって明治19年1月吉辰に奉納、建立されたものとつたえられています。母の思いが神に届き、クモの糸となったのです。