神主さんの ふか~い おはなし

尼崎市内 神社の神主さん達から、ふか~いお話をして頂きました。あなたの心の琴線に触れるお話があるかもしれませんよ。 ※ブラウザによって正しく表示されない場合があります。Firefox4.0.1は動作確認済、InternetExplorer8はエフェクトが表示不可能です。
『誰もが幸せになるために生まれてきたはずなのに…』 富松神社の宮司さんのおはなし

 人間は、誰もが幸福になるために生まれてきたはずなのですが、人という人の心の中には不満があり、思うようにならないことでイライラしています。近年、ますます顕著になっているように思います。現代社会では自分勝手な言動が起こりやすくなっていて、お互いにわがままな日常生活を送っているのですから当然です。
 古代の日本人は、一日の食事は朝夕の2回が普通であったことが伊勢の神宮の祭儀から判ります。運動量や労働に応じて食事がとられるべきところですが、現代人は言わばカロリーの取りすぎです。成人病は生活習慣病と言われるように、毎日の日常生活の中での習慣が何事にも影響を及ぼしているのです。
 子育て中のしつけと同じように、人間は毎日の生活習慣の中で育ちます。本がたくさんある家の子どもは、自然と読書好きになり、粗暴な親と暮らしている子どもは乱暴なことを平気でするように、家庭にはそれぞれにその家の「風土」が形成されています。
 自分の家庭の「風土」はいかなるものかが大切です。
 神棚や仏壇のない家庭では、家族をつなぐ装置がないので、家族意識を家族愛によって構築していく必要があります。しかし、この家族愛は普遍的なものではなく人生の中で変化する頼りないものです。いつも家族の絆を確認し合う必要があります。
 神棚があり仏壇がある家庭の子どもは、神仏を崇敬する家族の中で過ごしているわけですから、自然と神様を肌で感じ、祖先を想像するようになります。毎日の生活の中で「敬神崇祖」の心が培われていきます。家族はそうした生活の中で家族となり、人として成長していきます。幸せとは何か?哲学することが求められています。
 誰もが幸せになるために、私たちは「祈る」ことを忘れてはならないのです。

『日本赤十字社救護活動先駆者 櫻井忠興』 桜井神社の名誉宮司さんのおはなし

 私は、十六年前の阪神祭震災以降、櫻井神社に参拝された多くの方に由緒書を手渡し、御祭神の功績を話しております。
 当社は、櫻井松平家初代より十六代までをお祀りしておりますが、中でも十六代目で尼崎城最後の城主、櫻井忠興候の功績を特に詳しく説明しています。
 その内容を簡単に記しますと次のようになります。
 明治十年二月、忠興候三十歳の時、西南戦争が勃発して、明治政府軍と西郷隆盛軍の両軍に多くの負傷者が出た上にコレラが蔓延し、その惨状は、目を覆うばかりでした。
 この実情を聞いた忠興候は、勤務していた大神神社の大宮司を辞し、明治十年七月初めに帰京します。その理由は、松平一族が結社し、明治政府より設立を許可された日本赤十字社の母体である「博愛社」の運営を円滑にするためでした。
 忠興候は、帰京すると早速、屋敷を事務所に提供し、準備金千円(明治十年)を寄付します。同年八月十五日、博愛社委員代表として、医師・看護夫を伴い、九州に赴きます。
 以来、およそ三カ月、長崎・熊本・鹿児島を見廻り、人吉・八代・加治木・細島・都城・桜島に仮設病院を設置し、寝食を忘れて、敵味方の区別無く傷病者の手当に全身全霊を傾注します。
 このような功績が明治政府に認められ、四十一歳の時、日本赤十字社より最高の勲章である有功章が授与されます。
 しかし、戦場での無理が祟ったのでしょうか、六年後、西宮市岡田山の別邸(現 神戸女学院)で四十七年の短い生涯を終えますが、博愛の精神は、今も人々に引継がれ、その名を残す博愛幼稚園は、尼崎幼稚園の草分けで、百二十年の歴史を誇ります。
 と、ここまで話しますと、多くの人が、尼崎の認識を新たにされます。
 「尼崎は、公害の町と思っていたけど、立派なお城もあったし、歴史の残る偉い人がいはったんですね。」と  ※櫻井忠興候の肖像画は、櫻井神社に保存されています。

皇大神社の宮司さんのおはなし

 これまで、お祭りやご祈祷を通じて多くの人達と出会う機会がありました。慶事に際して神と人との仲執りもちをしたり、苦しみの中で訪ねてきた人の祈願を司ったりしたもののうちから印象に残ったものを記すことにします。
 先づ、神官になりたての頃、初宮詣の斎主を務めました。ご祈祷が終わりかけた時に、赤ん坊の父親が顔をゆがめて何かを訴えようとされましたので、耳を傾けてみますと、どのような事情かは知りませんが、不幸なことに目の前の赤ん坊が自分の子であるとは信じられなかったようで「ありがとうございました。お蔭で自分の子として育てる決心がつきました」という言葉を聞き、祭祀はおろそかにする訳にはいかないなと感じた瞬間でもありました。おそらく初宮詣を機に決意をしようとあらかじめ思って来られたのに違いないとは思いますが期待に違わず祈祷がうまく切替えの役割を果たした一場面であったように思います。
 またあるところで地鎮祭を済ませて祭具を片付けていますと、施主さんが「お祭りをして戴いたお蔭で、同じ土地ですのに、お祭り前と後とで何だか全く違う土地になったように感じます。本当に不思議ですね。」と仰ったのを覚えています。これも祭祀を通じて人の心象が変化した一齣ではないでしょうか。
 もう一つ。精神を病んだ若い女性から、お祓いをして欲しいと何度か依頼を受けました。お祓いをして話を聞くことをくり返しているうちに、毎日自主的に参詣されるようになり徐々に表情も明るくなりました。元気をとり戻して、近頃謝意と共に他郷へ移りますとの連絡が入りました。このようにお祭りや祈祷を申し込まれる人達は何らかの期待をもってその場にのぞんでおられる訳でそれに対して少しでも心に響くようなお祀りができれば、これこそ神様の心に適うものなのではないかと思います。このようなことを考えながら日々とり組んでおります。

『神様と人々との関わりについて思うこと』 久々知須佐男神社の宮司さんのおはなし

 最近の文明の進化は、凄まじいものがあります。インターネットで瞬時に世界中の情報が得られ、欲しい物を手に入れる事もできます。
 こんな中で、人々の神社や神に対して信仰心や敬神の気持ちは変化しているのでしょうか。神前での結婚式は減ってきているようだし、地鎮祭や上棟祭などもやや関心が薄れてきているように思われます。
 しかし、我が子の初宮詣りや正月の初詣などは、今でも深く人々の心の中に受け継がれているように感じます。また、定期的に神前にワンカップのお酒が備えてあったり、季節の初物の果物や野菜などが供えられています。またある時、氏子さんの中に甲子園に出場する高校球児がいました。彼は家族と共に、チームの勝利と健闘を祈りに神社に来られました。何回か勝ち進み、ついに敗れてしまいましたが後日、彼の妹さんの「氏神さんのお陰でたくさん勝てました。とてもいい日を過ごすことができました。氏神さん、ありがとうございました。」という手紙と、試合中身につけていたであろうお守りを持って、彼自身が神社に来てくれました。実は、こんな若い人がと、ちょっと驚いたものです。
 いかに文明が進んでも、歳取った人も若い人も多くの人々にとって神社に行って神に手を合わせることで心の安らぎを覚えたり、穏やかな気分になったり、前向きの気持ちになれたりするのはごく自然なことなのでしょう。
 神社に携わる者として、人々が神社に来てすがすがしい気持ちになって一日一日を楽しく過ごせるようにお手伝いできたらいいのではないかと思っております。

『オヤジ』 塚口神社の宮司さんのおはなし

 境内にある桜の木のつぼみが、ふくらみはじめた三月末、昭和一ケタの頑固オヤジが旅立った。
長男である私は、生まれてから、ずっとこのオヤジと一つ屋根の下で暮らしていた。
思い返せば、口数の少ないオヤジとは、意思疎通に欠け、色々と不満に思うことが多かったように思える。
これと言って、オヤジと話をしたわけでもないし、このオヤジに何か大きな事をしてもらった記憶はないが、何かあれば相談でき、助言をしてもらえるという安心感はあった。
親の存在は、子どもにとっての安心感であるとつくづく思う。
もうすでに、長く子どもの親である私ではあるが、頑固オヤジがいることで還暦まじかまで、子どもでいられた。
心底感謝している。
これから先、自分がオヤジとして子どもに何がしてやれるかと思うと改めて親という荷を感じる。 そして、頑固オヤジの存在の大きさを思う。
おそらく、いくつになっても、この頑固オヤジを越えるオヤジにはなれないだろう。
人の寿命は「神のみぞ知る」だろうが、出来る限り、この頑固オヤジに少しでも近づけるよう努めようと思う。
境内の桜の木は、いつの間にか、白い花びらの合間から新緑の葉が芽ぶいている。

『守り伝える日本の良さ』 杭瀬熊野神社の宮司さんのおはなし

 神道青年会尼崎市支部結成四十周年企画であるコラム執筆の依頼に、答えねばと筆を取り始めたのは、東北地方太平洋沖地震・津波発生から五日目という、安否の確認がままならぬ状況下、私自身、伝えられる報道に、阪神淡路大震災の記憶が甦り、居た堪れない気持ちであった。そんな中、我々が体験した阪神淡路大震災からの教訓が生かされ、ドクターヘリが全国から飛来し任務を遂行、ボランティアが現地入りし、避難所運営の助言に携わるというニュースには救われたという思いがした。このコラムをご覧戴く頃も被災者の方々の避難所での生活が続いているわけですから、我が国の総力を挙げて、物心両面心の通った支援体制遂行を願うものです。さて、日々の神明奉仕において、一番に心がけていることは、リピーター(次もまた、お参りしようと心に留め置いていただく)づくりと地域に向けた情報の発信元になることである。
 そんな中、宮司としてのお話をということでご依頼をいただきます。願っても無い機会で、小・中学校PTA向けには「子どもの躾は、まず家庭から…お天道様が見ている…かえるの子はかえる…個より公(教育勅語)…什の掟(ならぬことはならぬ)…などをモンスターペアレントへの警笛を込め話しています。そして、老人会や町会の集まり向けには、今回の震災でも、外国からのニュースで、我が国の国民性(騒乱の際に略奪行為が起こらない)を賞賛する声があがっていますが、この、火事場泥棒をとりわけ卑劣なものと考える我が国の美風…それが武士道精神から派生している…武士のみならず万人が武士の生き方に共感・尊敬し競って倣った…などをお聞きいただく方が次代に伝えていく役割を担っていただけたらという願いを込め話しています。
 今夏も老人会役員の研修会での講演を依頼されていますが、加えて、大相撲の八百長問題 を、「武士の情け…」との絡みでと考えているところである。

『ちょっといい話』 貴布禰神社の宮司さんのおはなし

 当社の近くにある三和本通商店街では毎年歳末大売り出しで福引きが行われている。景品は「現金つかみどり」。1万円札、千円札、100円玉、10円玉のつかみ取りが各等に設定されているのだ。旅行やテレビではなく現金というのが尼崎らしい。
  その中でも10円玉のつかみ取りは比較的当たりやすく、多くのお客さんがチャレンジされている。たくさんつかまれる方で1000円程度(100枚)、子どもの手でも700円程度(70枚)はつかむことができる。そして、10円硬貨はすべてが新しいもので銅色に輝いており、気持ちよくつかみ取りに挑戦することができるのだ。
  さて、ここからが本題。毎夕にお賽銭を回収するが、12月末から2月末ころまで賽銭箱に銅色に輝く10円玉が多く見受けられる。それも毎日。日頃、賽銭箱で新硬貨を目にすることが少ないだけに、その輝きはよく目立つのだ。
  さて、この輝く10円玉。私の推察だが、福引きで10円玉のつかみ取りが当たった方が、「せっかく新しい硬貨だからお賽銭に入れよう」と毎日のお参りの際に賽銭箱に投げ入れられているのだと思う。ご自分のご用事に使われずに、神さまへのお礼にお供えされているのだ。
  そんな気持ちのこもったお賽銭。私どもではご神前を清らかに保つためにコツコツ貯めては使わせて頂いている。神さまのご用事の為に使わせて頂いているのだ。「次の福引きでは、この方々にもっとたくさんの福が当たりますよ~に!」と願いながら…。

『いのちの更新』 大物主神社の宮司さんのおはなし

 「運」が良い人悪い人、みたいな言い方をする。「運」を信じて縁起を担ぐとか、ジンクスを守るとか、プロスポーツマンにも多いようだ。この「運」、生まれ持った量の差などはあるかもしれないが、無限ではないらしい。ちゃんと「運の尽き」ということばがある。折れ線グラフを想像してほしい。縦軸に「運」の量、横軸を、自分が生まれてから死ぬまでの時間とする。良いときもあれば悪い時もあるから、折れ線グラフは波を打つような形をとるはずだが、最後だけは絶対にゼロになる。最後はゼロになる。そんなふうに、いまある自分自身の姿の「いのち」の「ちから」は最後はゼロになる。
 ゼロが終わりを意味するかどうかはともかく、「いのちのちから」はみずみずしく活発であるのがよい。世界中で、蛇は信仰の対象になることがある。脱皮するからといわれる。古い皮を脱ぎ捨てたとき、以前よりも大きく、力強くなっている自分というイメージは魅力的だ。新しい皮はみずみずしく清新で、快活に世界に向かうことができる。脱皮は、さながら「いのち」が更新されているかのようだ。
 そしてこの「脱皮」は、「かみまつり」によって行われてきた。
 一年を二つにきっちり分けて、六月末と十二月末に「大祓」を執り行うよう、古い時代の日本は律令に定めた。この定めは階級社会にあって、階層を選ばずすべての人に大祓を修めるよう定めている。「大祓」は、自分自身と、自分自身を取り巻くマイナスのちからを神のちからによってどこかへ遣ってしまう「式」だ。古い皮を割いて、みずみずしい自分を取り戻す「式」だ。「いのち」の折れ線グラフは絶対に右肩下がりでしかないが、「かみまつり」によって定められた期日ごとに更新していける。では、これを社会に当てはめてはどうか。各地の氏神の例祭がこれに当たる。
 共同体は滅んではならない。ゼロになる未来を発想しない。しかし現実はどうか。むしろ滅ぶだろうと想像することのほうが容易くはないか。しかし「かみまつり」はそのような想像を打ち消す。日ごと、月ごと、年ごとに営みは確実に積み重なる。積み重ねを打ち消すような衝撃もさらに長い年月で見れば、折れ線グラフのへこみの部分でしかなくなる。へこみの時期にあたってしまったものは、そのようなモノこそ祀られるべきものともされてきた。ひとりひとりの折れ線グラフは結果的に右肩さがりだが、その集まりの共同体の折れ線グラフは、長い目で見れば右肩上がりで永久に続いていく。営みは、先に行くものの積み重ねの上に、あとから来たものがさらに積み重ねるということの永遠の繰り返しだからだ。良いときもあれば、悪い時もある。氏神の例祭は、時期を決定して、共同体の「いのちのちから」を更新する作業だ。

水堂須佐男神社の禰宜さんのおはなし

「あの時のお兄ちゃんがこんなに大きなったんか」何年か前の神青総会にて、ある宮司さんより声をかけて頂いた。
当社須佐男神社は十六年前の阪神大震災にて拝殿全壊の被災に遭い、その折には全国の神社関係からボランティアにて、ガレキの撤去、物資の提供、義捐金を賜った。その宮司さんは職員の神職さんを初め、県の神青有志の方々とともに当社のため作業にあたって頂いた、あの宮司さんだったのだ。

当時十三歳の私は、その宮司さんの神社名もお顔も存じていなかった。
私も学校を休み、大人たちに混じって頭にタオルを巻き、粉じんマスクをして崩れた瓦を運んだりと手伝いをしていた。その中学二年だった私を思い出して頂いたのだ。
その日のお昼に境内の地べたに座り、作業して頂いた皆さんと食べたおにぎりの味を、今でも確かに思い出すことができる。

覚えて下さっていた嬉しさと、ご奉仕への感謝と、時の経過を感じた。
その恩返しは、未だ出来ずにいるが、この度の東日本大震災で被災された方々、神社へと向けて、改めてその奉仕のタスキを届けたいと考えている。

今思えば、あの当時阪神大震災により社会が受けた事の重大性もわからず、ただおぼろげに、父の背中越しに復興への道を見ていた。
その道は平坦なものではなかったと思う。震災翌年には、五十年に及ぶ幼稚園経営も終止符を打つこととなり、園長であり宮司である父の髪はみるみる白髪になっていった。

被災地には子供たちもたくさんいて、その子達が受けたものは当時十三歳だった私が経験したものより、大きく深いものであろう。

親が子を想い、子は親を想い、日本中が被災地の復興を祈り、
そして世界が日本を応援している。
私が災害から学んだことは助け合いの心と、神社というものが人々に愛され必要とされているということ。

これから被災地で、時間が経っても忘れられないおにぎりが、復興の現場の中で食べられることを祈ります。

『神社、お寺、教会の三大行事を挙げてみる。』 大島神社の宮司さんのおはなし

 神社では、祈年祭(きねんさい)・新嘗祭(しんじょうさい)・例祭(れいさい)が挙げられる。祈年祭はトシゴイノマツリと訓読する。トシとは稲を主体とする五穀をはじめ、食べ物全体を意味する。神に農作物の成熟を祈り、同時に産業界の発展を祈り、国家の安泰を祈る祭りである。新嘗祭はニイナメノマツリと訓読し、新嘗とは新饗(にいあえ)の意味で、新は新穀、饗はご馳走を意味する。新穀を神に供え、収穫を報告し感謝する祭りである。例祭は神社のご祭神・ご鎮座に縁のある日が充てられていることが多く、神輿の渡御、山車・屋台の巡行等の神賑行事が執り行われる。
 お寺では、灌仏会(かんぶつえ)(降誕会(こうたんえ)・花まつり)・成道会(じょうどうえ)・涅槃会(ねはんえ)(常楽会(じょうらくえ))が挙げられる。灌仏会は釈迦の誕生を祝う法会(ほうえ)。成道会は釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた日を記念する法会。涅槃会は釈迦が入滅(亡くなった)したと伝えられる日に報恩供養の法要をする法会。
 教会では、復活祭(イースター)・降誕祭(クリスマス)・聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)(ペンテコステ)が挙げられる。復活祭はイエスが昇天して三日後に復活したことを祝う祝日。降臨祭はイエスが生誕したことを祝う祝日。聖霊降臨祭はイエスが復活してから五十日目に弟子たちに聖霊が下りた事を記念する祝日。
 このように見てみると、神々と人々、釈迦と人々、イエスと人々が出会うために場所が決められ、日時が決められている。それが神社の祭り、お寺の法会、教会の祝日である。
 「まつり」のまつは「待つ」であり「待ち」である。待ち望み、仕え「まつる」のである。神社では神々を待ち、お寺では釈迦を待ち、教会ではイエスを待つ。そして神々に、釈迦に、イエスに仕えまつる。
 神道、仏教、キリスト教と宗教が異なろうと、強弱はあるが、崇める対象に対する思いは一緒である。

『巨大書店を見物して』 皇大神社の禰宜さんのおはなし

 先日、関西最大級の書店が大阪にできたと聞いて、話のタネにと神職仲間3人で見物に行ってきました。何を買うわけでもなく、その規模の大きさに驚き心躍らせながら店内を探索しているうちに、誰からともなく神道関連の書籍を探そうということになり、宗教書コーナーへ向かいました。すると、どうでしょう。仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教…と、それぞれの宗教名が各本棚の案内板に明記されているのに、「神道」という文字は見当たりませんでした。しかし、よくよく探してみると、我々が神道の本と思っているものが、「思想」「歴史」「旅行」等のあらゆるコーナーに見つけることができたのです。私が考えるにこれは、「神道」という特別なコーナーを作らなくても、神道の本を並べるコーナーがあちこちにあるということなのではないでしょうか。  神道とは何か特別なものではなく、日本人にとってごく身近なもので、生活の中にごく自然と存在しているものだったのです。日本の歴史や文化が神話であり神道なのです。もしかしたら、現在我々が生きているこの時代の出来事も将来神話の列に加わるかもしれません。  そうか、神道には教理・経典はないけれども、先人達の知恵や伝説を散りばめた歴史文化そのもので、それらの中から学び、そして次の世代に受け継いでいくものなんだな。そんなことを改めて感じた書店見物でした。  

『あなたは神を信じますか?』 富松神社の権禰宜さんのおはなし

 お宮参りで来社されたご家族の中に小学校低学年くらいの子供、弟ができて嬉しくて仕方ない様子で、待合室でハシャいでいた。ご祈祷の受付をしている最中にその子が私に話しかけてきた。「ねー、ねー、おじさんは神さま見えるん?」「え?!見えないの?!私は見えるよ」と私はわざと驚いたように聞き返し、「神さまは良い子にしか見えへんねんで」と続けた。「み、見えるもん」と何とも言えない表情をして両親の側へ行って甘える。子供はおもしろい。
 今、告白をすると私は神さまを目で拝見したことはない。神主さんともあろう者が子供に嘘を教えるとは…どうか神さま許して下さい。しかし、私は「神さまのご存在」に気付く時がある。どんな時に気付くかと言うと、自分の力以上のことが出来てしまった時、例えば私は昨年と一昨年に続けて子どもを授かったが、二人とも無事に産まれてきてくれた時にはハッキリと気付くことができた。それまでに結婚、就職、受験、家族や自分の入院と手術の時など、幾度も「氏神さまに助けて頂いた」と感じる経験をし、今日の私があると思っている。逆に「自分の力だけで、今の自分がある」と考えてしまうと、「神さまのご存在」に気付くことはなかっただろう。また、私だけが気付くことができるというのではない。誰でも気付く機会はあるのではないだろうか。

 皆さんはどうですか?

 冒頭でお話したあの子も、きっといつか「神さまのご存在」に気付くでしょう。なぜなら、弟ができてあんなに喜んでいたのだから。