1月9日、10日、11日は縁起物授与所、境内周辺は屋台で大変賑わいます。
商売繁盛、仕事運上昇を叶えてくれる神様、えびす様。尼崎えびす神社は「尼のえべっさん」と親しまれています。
年に一度の十日えびすはお仕事の成功をご祈願する大祭です。お馴染みの「商売繁盛で笹持って来い!」の掛け声で盛り上がる十日えびすのメインは「福笹」。笹に大判、小判、倉、吉兆、絵馬、御札など数々の縁起物をつけ飾ることによって1年間、えびす神様のご神徳を授かります。見ているだけで本当に幸せになれそうな気がします。尼崎えびす神社では、今年も尼崎の商売人の方々から奉納される大マグロが本殿前に供えられます。その大マグロにお金を貼り付けると福が自分に付くという毎年の慣わしに人々の幸せへの期待が高まります。幸せは元気でパワフルなところにあります。尼のえべっさんは、土地柄朗らかな神様。
100年に一度といわれるこの大不況も吹き飛ばすような明るい雰囲気を尼崎えびす神社で、是非体感し福をたくさん持って帰ってください。
歩行者道路になるためお車でのお越しは困難になりますが神社近くには多くのパーキングがございます。神社境内にはお手洗いがありませんのでご注意ください。
立春前日(2月3日)を「節分」と言います。節分とは季節の分かれ目のことで、昔は立春・立夏・立秋・立冬のすべてを節分といい、年4回あったわけですが、今日では立春の前日だけを節分というようになっています。春の節分だけが重くみられるようになったのは、春夏秋冬の季節の中でも長く厳しい冬に耐え、暖かい春を迎えるという人々の気持ちが非常な喜びであったし、草の芽生える春は農事の始まりを祝う心が重なったからだと言われています。節分の日には各社でお祭りが行われますが、特に船詰神社、富松神社、皇大神社、尾浜八幡神社では地域の方々が参加できる「豆撒き行事」を行っています。撒かれた福豆・福餅などを受け取った参拝者は、家庭に帰り、家族みんなが健康でありますようにと願いを込めて、家族と一緒にいただきましょう。参加する際は必ず公共交通機関を利用してお参りしましょう。境内には駐車できません。
境内では24種68本の梅花を楽しみながら、「梅むすめ」による梅ジュース無料接待、梅干(500円)、梅しそ(100円)、梅ジュース(800円)の販売(価格は変動する可能性有り)が行われ、茶席にも参加できる。境内には駐車スペースが無くなるので公共交通機関を利用してお参りしましょう。
「難波の梅」はとくに15代応神天皇、16代仁徳天皇の御代から、朝廷とのつながりが深まると共に、当時から人々に愛され親しまれてきました。このことについては、多くの古書や歌に散見されるところであります。例えば、日本記には、「欽明天皇元年九月幸難波祝津宮」と記され、また摂陽群談にも、「難波の宮、川辺郡難波村に属す土俗仁徳帝皇居の地也と云へり、因て難波の梅と号く名木あり。難波の梅、同郷難波村に名の梅あり何も仁徳天皇皇居の地と云伝ふるに寄て難波の梅とするや云々」とある。
夏の日照りや風水害のないようにとお願いしながら、境内に集う人々も氏神様と一緒に伝統芸能を鑑賞します。地域の能楽師 山村啓雄先生の御協力により例年7月26日夕刻より開演し、解りやすい説明もまじえ、誰でも楽しめます。思わず声を出して笑ってしまう狂言や尼崎こども能楽教室の小中学生の子ども達による仕舞も必見です。
(入場無料・雨天中止) ※カメラ、ビデオ撮影録音禁止
農耕儀礼や民間芸能である田楽や猿楽から発展した「能楽」の歴史は、約600年前からと言われています。能や狂言を拝見するとき、その所作や謡(うたい)の中に先人達の長い歴史の息遣いが感じられてなりません。富松神社の神苑にそよぐ風や蝉の声、能楽演者の方々の技能、能装束や囃子の音色、そして、薪能を鑑賞している来場者の篤い心情が境内に調和してその雰囲気をつくりだし、中世の幽玄の世界に引き込まれる不思議な気分を味わえます。
1日は午前10時ころより、各町の太鼓・地車が神職のお祓いを受けた後、町内を中心に運行する。午後5時半より太鼓を先頭に地車8台が阪神尼崎駅南側を出発し、商店街や氏子地域を「パレード」する。午後7時半頃から「宮入」。特に先頭の辰巳太鼓の暴れ方に特徴があり、右へ左へ90度以上倒され、横倒しされる様は、参拝者から自然と拍手がおこるなど感動を与える。全ての宮入が終わると、太鼓・地車9台が境内で一夜を過ごし御神威を受ける。
2日は午前10時頃より、地車が神社を出発し、町内を中心に運行する。午後5時半頃に神社西側道路に集まり「山合わせ」が行われる。これは尼崎独特のもので、2台の地車が向かい合い、前の部分を上げながらぶつかるもの。そして上手く肩背棒といわれる棒を先方の地車にのせることができれば勝負ありという演技だ。日本全国の地車ファンから問い合わせがあるほどで、約3時間にわたって熱戦が繰り広げられる。2日間を通して、境内及び隣接する公園などに約150軒の露店が並び、また近隣の商店街などでも夜店が出され、町全体が祭りムードに包まれる。また、大祭の斎行日が8月1日、2日と決められているため、特に尼崎南部地域ではよく知られており、最近では全国の地車ファンも集うなど2日間で約10万人の参拝者で賑わう。
当初、6月30日が例祭日であり、明治初年以降、内務省の指導により、夏祭りは神幸行事として、6月中旬の大潮の日となった。その後、大正末年より旧6月30日にあたる7月30日を大祭日とし、昭和初年より金融機関の要請により祭日を月末から8月1日に移したが、両月に渡っての祭事を避けるため、現在の8月1日、2日に決まったのは昭和6年以降と言われる。 祭礼は江戸時代の庶民にとって、最も楽しみであった。特に当社の祭礼は神社の神事というよりも城下町の祭りであった。江戸中期以降、昭和15年に至る約200年の間、当社の神幸行事は尼崎城下を中心として海上を神幸する船を中心とした行事であった。本祭終了後、神輿を中心とした行列が、祓い太鼓を先頭に、猿田彦や左大臣・右大臣などの装束を着た人が続き、列の後ろには数十台の地車を従えて、陸渡御を尼崎の東端の辰巳町まで行う。そこよりは神輿が船に乗せられ、船だんじりを従えて海上を神社前の浜まで行う丸一日がかりの盛大のものであった。 昭和15年(紀元2600年)の国家行事協賛のため、特に許されて陸・海の渡御を完全な形で行って以来、この行事は途絶している。昭和33年、34年両年に渡って、神幸祭の復活を試みたが、交通事情などにより現在は中断したままである。 当社で地車(だんじり)が曳かれるようになったのは、正徳4年(1714)頃と推測される。戦災で多くの地車が焼失し、戦後は一時衰退の危機を迎えたが、現在は8町から地車が出され、勇壮さを競っている。また辰巳町からは「太鼓」が出される。本来はお渡りの先頭を行き「祓い」の役目を果たすもので、現在でもパレードの先頭を進みその道中の安全と、氏子のお祓いを行っている。